STORYSHO Kizaki

小説『帝王』より、帝王のストーリーをお届けします。

#006-4 兼業翔は接客業の本質、奥の深さをこの時期に学んだと言っていいだろう。その翔を見て、オーナーの悟志は娘の恵にこう言った。 「恵、お前が連れて来た翔君はホントに良く働いてくれるな。ホストの仕事と掛け持ちだというのに手を抜こうとしない。仕事を憶えようと努力するし、自分なりの工夫もある。簡単そうに見えるけど誰にでもできることじゃないぞ」 翔と話すのが目的で来る客も多く、ギャルソンズは以前よりも賑わうようにになった。そんな充実した毎日を過ごす翔だったが、落とし穴が待ち受けている事に気付いてはいなかった―。

2021.09.05

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#006-3 兼業これまではホストとして、相手と1対1で接してきたが、ギャルソンズでの“1対多”という環境に慣れるまでは大変だった。 オーダーした席とメニューを憶えるのは当然の事だが、飲み物・食べ物を用意しているカウンター内の状況を把握、空いたテーブルを片付けるタイミング、客への心配りなど。1人で複数を相手にするからこそ、同時に多くの事に対する気配りをするという習性が身に付いた。 狭い店内だけに、客が1人で来た場合には話し相手もしなければならず、必然的に、その客の顔と名前はもちろん、仕事内容から家族構成、果ては酒の好みまで憶える必要に迫られた。しかし、そこまで会話ができる様になると、客との関係も親密になり、その来店の頻度も高くなっていた。

2021.09.05

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#006-2 兼業そんな悟志の想いとは別に、ギャルソンズは地元のよくあるスナックの1つになっていた。紳士・淑女が流れるJAZZ(ジャズ)に耳を傾けてカクテルを飲むというよりは、工事現場で働く人達が仕事帰りに仕事着のまま立ち寄っては、ビールや焼酎を飲み、カラオケで演歌を唄う。 しかも、父の悟志は体調を崩し、店には出たり出なかったり。そのため、娘の恵が父の代わりにバーテンダーとして店に出ていた。 「お兄さん、俺のビールまだぁ」 「おい、早くオーダー取れや」 「翔君、このおつまみ1番テーブルにね」 たった13席だが、週末など全ての席が埋まった時は怒涛の忙しさだった。翔は酒やおつまみを運び、テーブルを片付けるというフロア係の仕事を精一杯務めた。

2021.09.05

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#006-1 兼業"ギャルソンズは竹ノ塚駅から徒歩で10分程の距離にあり、3階建ての雑居ビルの2階で営業していた。1階には韓国料理店とキャバクラ、3階はワンルームの賃貸住宅が4世帯あり、社会人や学生が住んでいた。2階のギャルソンズの隣には営業されていないスナック跡があり、恵の店はそこを倉庫代わりに借りて使っていた。 ギャルソンズの店内は10坪程で、カウンター席が5つと4人掛けのテーブル席が2つの小さな店だった。 恵の父・悟志は若い頃はカクテル大会で賞を獲得した経験を持つバーテンダーだった。その実績を背景に30歳の時に地元・竹ノ塚に戻って、この店を開いたのだ。「竹ノ塚にも本格的なBARを」という熱い情熱で。

2021.09.05

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#005-4 哲学恵は2ヶ月程前、ブルーナイトに1人でやって来くると、たまたま着いた翔を気に入り、以来、ギャルソンズが定休日の水曜日に週1回のペースで店を訪れ、翔を指名していた。そしてその日も、いつも通り恵は1人でやって来た。しかし、その表情は沈んでいた。 「どうしたの恵さん。浮かない顔しているけど」 「フロアのバイトの子が辞めちゃったのよ。私1人でバーテンとフロアやっているから、もうてんてこ舞いなの」 「カウンターとフロアを1人でやるんじゃ大変だね。次のバイトは、いつ入るの?」 「それが…ウチ、今、苦しくてさ」 「だったら、時給は安くていいから僕がバイトするよ。恵さんの店、良い店だから、やり方を考えれば絶対、繁盛するよ」 「そ、そんなぁ…翔君、ここのメインホストの1人じゃない」 「店は遅番にしてもらうよ。今は8時から翌朝6時までのフルタイムだけど、それを0時からにしてもらうよ」 「そんなことできるの?」 「成績上位の人は皆、そうしているよ。ホストクラブに来る客って飲食業や水商売、風俗の女性が多いから、仕事を終えてからだと真夜中0時過ぎっていうのがほとんどなんだ。僕のお客もそういう人が多いし、先月も上位の成績だったから、それくらいのワガママは聞いてくれると思う」 「じゃ、甘えさせてもらうわ…」 利害ではなく、困っているなら少しでも手助けをしたいという翔ならではの申し出だった。早速、翌週から「ギャルソンズ」のウェイターと「ブルーナイト」のホストという2足のわらじを履く事になった。

2021.08.29

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#005-3 哲学その弱点を補い助けたのは、翔の〝素直さ〟だった。他のホストは、よほどの太客(ふときゃく)でない限り、同伴やアフターの場合を除いては、店外で客と会おうとはしなかった。しかし、翔は指名客に限らず、どんな客でも連絡があればプライベートの時間でも飛んで行き、運転手をしたり、買物に付き合ったりした。 そこには仕事という意識はなく、人と接する事を欲してホストになった翔の素直な気持ちがあった。そして、翔がプライベートの時間を一緒した客たちは、意図せず、翔の指名客として通うようになっていった。 目先の金を追わなかった代わりに、翔は自分のした事の結果を手に入れる事ができたのだ。 人と人との出会いを大切にする― この地球上に60億人以上の人間がいる。その中から、その日、60億分の1という奇跡的な確立で偶然知り合うことのできた客との出会いが翔にとっては素直に嬉しかった。

2021.08.29

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#005-2 哲学ホストは売り上げのために酒を飲ませるのが基本だが、中には自分と同じく酒が弱い客がいる。そんな客にウケるホストになろうと考えた。酒でなくとも、その分、ソフトドリンクを飲めば一緒だ。酒が飲めない自分を逆手に取った発想だった。 そう考えたのには自分が酒を飲めないからというのとは別の理由もあった。 ホストの中には売り上げのために、半ば無理やり酒を飲ませ、記憶が曖昧になっている間に高価な酒を入れさせるという悪質な者もいた。一時的には売り上げは立つかもしれないが、長続きはしない。あくまでも楽しく飲んでもらい、遊んでもらい、それに見合った対価・お金をいただく。それが正しい接客業のあり方だと思った。 自分のした仕事に見合った額。自分の身の丈に合う額でなければ、金に翻弄されてしまう。そう考えたからこそ、酒の飲めない客の気持ちを誰よりも理解できるホストになろうと思った。 しかし、いくら相手の気持ちに立つ事ができても、一緒にいたいと思わせなければ仕事にならない。翔は口下手だ。会話で客を盛り上げる事はヘタだったし苦手だった。

2021.08.22

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#005-1 哲学こうして始まった翔のホスト稼業だったが、その華やかさとは裏腹に仕事は過酷だった。 翔の勤める「ブルーナイト」は、店を開く〝口開け〟が夜8時、閉店は朝6時だったが、なかなか帰ろうとしないお客たちが帰り、後片付けを済ませて家に着く頃には、お昼を回っている事が多かった。 昼1時に寝て夕方5時には起きる。新人で指名客のいない翔は、開店2時間前の夕方6時には出勤し、床磨きやテーブル拭き、トイレ掃除、おしぼりの準備まで、売り上げの低い先輩ホストたちと3人でこなしていた。 そんな過酷な生活でも翔に不満はなかった。これまでと勝手が違うのは当然のことだし、そもそも自分が決めて入った世界だ。これが当たり前の生活なのだと現実に順応させていった。 入店から1ヶ月が過ぎた頃には、基本的な仕事の流れと夜型の生活にも慣れ、3ヶ月が過ぎる頃には、周りのホストの良い所を取り入れながら「輝咲翔」というホスト像を築き上げていった。

2021.08.22

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#004-3 下積み翔はまず自分を磨こうと思った。横に着いたホストが、街中で見かける男と大差ないのであれば、金を払って来店するお客に失礼だし、夢を与える事はできない。最初に着いた女性客が言った身なり格好もそうだし、そういう表面だけでないお客への気遣いも大切にしようと思った。お客が素敵と思える男になろう。そう考えた翔は早速、行動に移した。 それまで運送会社で貯めた金でスーツを数着新調し、エステに通い、ボクシングジムにも通い始めた。口下手な自分を自覚していたので、外見から変え始めたのだ。もちろん、接客の合間に他のホストたちの会話に耳を傾け、自分の会話(トーク)の肥やしにした―。

2021.08.22

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#004-2 下積み野球は9回裏・最後の最後まで試合の結果はわからない。例え、エラーをしても繰り返さなければ勝てる。負けなければエラーも失敗じゃない。何度、失敗しても諦めなければ失敗じゃない。そんな芯の強さが翔を支えていた。 とはいえ、諦める事はなくても、新人である翔がいきなり仕事をこなせるはずもなく、苦労と努力は続いた。 1週間が過ぎた頃、翔は日々の仕事の中で気付いた事から、ホストとしてやっていくために必要な事が見え始めていた。 女性客は、自分の母親と同年代くらいだが、指名するホストの前では〝女の子〟となって甘える。そんな現実から離れられる場所がホストクラブなのだということ。そしてホストというのは、店という舞台で客の望む役を演じる役者になればいいということを。

2021.08.22

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#004-1 下積み(ホストって難しいな。会話だけに集中してもダメ。煙草に火をつけたり、空いたグラスに水割りを作るタイミングだけに集中してもダメ。酒も飲まなくちゃダメ。もう少し上手くできると思っていたのに、これまでの自分が全否定されているみたいだ) これがホスト初日を終えた翔の感想だった。しかし、辛らつな言葉を浴びせた女性客に思いが及んだ時、翔の口をついた言葉は恨みや文句ではなく、「最初にあの席に着けて良かった」だった。 翔の粗(あら)を探すように文句を言ってきた女性客だったが、それだけ自分を見てくれていたんだと思った。そして、自分の至らない点や欠点を指摘してくれた。もし昨日、あの女性客の席に着いてなかったら、自分はこれから先も他のお客様に不快な思いをさせていたかもしれない。だから翔は、それを指摘してくれた女性客に感謝したのだ。 自分の足りなさや無力さを痛感した時、大抵の人はダメだった時のための逃げ道や、自分を正当化させるための言い訳を用意する。 だが翔は、その朴訥とした雰囲気とは裏腹に、一度「やる」と決めた事は納得するまでやり遂げないと気が済まない性格だった。たとえ途中で失敗しても、それは最後までやり遂げるために必要な事だという考えだが、それは幼い頃から続けてきた野球によって培われたものだった。

2021.08.16

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#003-6 ホスト「ねぇ。新しいボトル入れるから、この新人に儀式やらせなさいよ」 先輩ホストも陰険な笑いを浮かべて応じる。そして、ブランデーの新しいボトルが来ると、氷を入れるアイスペールにドボドボと注いだ。 「オイ、新入り! これを一気飲みしろ」 「!」 アイスペールになみなみと注がれたブランデーを一気に飲めと言う。 「これがホストの新人歓迎の儀式だ。さあ飲めよ」 「ヘルプの仕事はね、先輩ホストの売り上げに貢献することなの。ひたすら酒を飲んで、客に新しいボトルを入れてもらう。それが第一歩なのよ。さあ、飲みなさい」 「…」 酒の飲めない翔にとって、とてつもない試練だった。だが、酒が当然の世界に飛び込んだ以上、逃げる訳にはいかない。意を決してアイスペールをつかんで立ち上がり、一気に飲み始めた。口元から液体がこぼれ落ちる。息が苦しくて顔が歪む。それでも飲んだ。飲んだ。そして飲み干した。 「プハーッ」 飲み終えて女性客と先輩ホストを仁王立ちで見下ろした。2人は唖然としていた。 「これでいいですか」 「あ、ああ…合格だ」 その後も翔は先輩ホストの席でヘルプに着き、飲まされ続けた。そして深夜0時を過ぎた頃、体力と気力は限界に達した。翔の視界はグニャグニャに歪み、足元はフラフラ。とてつもない吐き気に襲われ、何とかトイレまでたどり着くと、便器の中に顔を突っ込んで激しく吐いた。そこで力尽き、そのまま記憶を失った。 こうして、翔のホスト1日目は終えた―

2021.08.16

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#003-5 ホスト翔は突然、降って湧いた状況に戸惑い、呆然と言葉を失(な)くしていた。殴られた顔面には青アザができていた。高校時代、野球部で殴られた記憶が蘇った。そして、このことによって分かった。ホストの世界というのは、表面的には茶髪の兄ちゃんたちがチャラチャラしているようだが、実態は体育会系の縦割り社会なのだということが。 店内には煙草の紫煙(しえん)の香りと酒の匂いが充満している。それが翔にとっては耐え難く辛かった。なぜなら、翔は生まれて此(こ)の方、酒も煙草もやったことがなかったからだ。やらなかった理由はこれといってない。煙草は匂いが好きになれず、酒は体質的に合わないから。高校の時に1度、友達と酒を飲んだが、激しい目眩と吐き気がした。酒は自分に合わないと分かり、以後、一滴も口にすることはなかった。 嫌いなモノ、自分に合わないモノ、興味が無いモノには一切手を出さない。翔はそういう人間だった。しかし、ここは酒と紫煙が蔓延する世界。翔のそのスタイルが通用するはずもない。戸惑う翔に更に追い討ちをかける難題が課せられる。

2021.08.16

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#003-4 ホスト愛想の良い方ではない翔だったが、精一杯の愛想笑いを作って挨拶した。そして、指名ホストと女性客が座るソファーからテーブルを挟んで反対側にある“ヘルプ席”と呼ばれるスツールに腰を下ろした。 ファンデーションを厚く重ね、目の覚めるような真っ赤な口紅(ルージュ)を塗った40代の女性客はジッと翔を見つめた。すでに酒のせいで虚ろになった目で。 「アンタ、今日が初めてなんだってね」 「ハ、ハイ…」蚊の鳴くような声で返した。 「この仕事の前は何していたの?」 「トラックの運転手をしていました。最初は2tトラックで、その次に4t…」 女性客は煙草を箱から1本抜き、口に運んだ。翔はなおも喋り続ける。 「2tの時は一斗缶を専門に運んでいたんですけど…」 すると女性客が 「ちょっとアンタぁ!」 翔の話を強い口調で遮った。 「?」 何を怒鳴られたか分からず、翔はキョトンとした顔で女性客を見つめた。 「バカ野郎! 火だろうが!」 指名ホストはいきなり立ち上がり翔を殴りつけた。衝撃が走ったと思った瞬間、翔の体は吹っ飛び床に転がっていた。 「すみません。コイツ、今日が初めてなんで」 詫びながらライターで女性客の煙草に火を点けた。 「ありがとう。やっぱり京介クンは気が利くわね。それに引きかえアンタ、全然ダメね。喋りも面白くないし、煙草の火もロクに点けられないなんて。この仕事に向いてないんじゃないの」 酒が入り、すっかり酔った様子の女性客は、歯に衣着せぬ勢いで絡む様に翔に文句を言った。 「だいたい、そのカッコからして気に入らなかったのよね。サラリーマンじゃあるまいし。もっとホストらしい着こなしができないの。眉も全然手入れされてないし。せっかくのお酒がマズくなるわ」 「…」

2021.08.16

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#003-3 ホスト「おはようございます。今日から入店した翔君です」 翔を紹介する店長が「輝咲」という苗字を言わなかったのは、当時のホストの世界では源氏名は名前だけというのが一般的だったからだ。翔は偽らざる自分で勝負しようと、源氏名を決める時、本名をそのまま使うことにした。 店長は40代後半で“紳士”という言葉がしっくりくる男性だった。その外見によく似合う低く落ち着いた声で翔の簡単な紹介をすると、翔に視線を送り、うながすように頷いた。翔は立ち上がると深くお辞儀して言った。 「今日からお世話になります翔です。よろしくお願いします」 先輩ホストたちは声を掛けることもなく、皆、無関心といった様子で押し黙っていた。翔は予想外の冷ややかな反応に戸惑ったが、店長はそれがいつものことであるかのように、事務的にミーティングを進めた。 翔のホストクラブデビューとなるこの日は、ホワイトデーということもあり、開店と同時に何組もの女性客が、指名するホストとの甘いひと時を過そうと次々にやって来た。 初めて目の当たりにする夜の世界は、華やかで艶やかだった。汗と埃にまみれて働く職場しか知らなかった翔にとって、それは全くの別世界だった。 (これがホストクラブかぁ。テレビを見ているみたいだな) 翔は初めて見る光景に興奮し、子供のように瞳を輝かせて見入っていた。 「オイ新人! ボケッとすんじゃねぇ! 3番テーブルにヘルプにつけ!」 「ハ、ハイ!」 フロアマネージャーに頭を小突かれて、戦場へ駆り出されて行った。 「は、初めまして。翔です」

2021.07.24

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#003-2 ホスト訪れた客はグランドピアノから奏でられる生演奏の甘美なメロディーに合わせて、お気に入りの指名ホストと語らい、時にはワルツやジルバといった社交ダンスを踊る。その雰囲気は “地元のマダムが集う社交場”という表現がピッタリだった。 夜7時半、開店30分前に出勤した翔は、開店前のミーティングに臨んだ。同伴出勤する者を除いた20人近いホストたちは客席に座り、フロアに立つ店長の話に耳を傾けた。翔は客席の中でも最も店長に近い位置にある末席に座らせられた。そして思った。 (これから俺のホストとしての人生が始まるのか。不安はいっぱいあるけど、これまでも何とかなってきたんだ。ホストだって何とかなるだろう…) 翔はホストという職業について「女性客の酒の相手をする」程度の知識しかなかった。具体的な仕事内容もまったく知らないまま、この世界に飛び込んだのだ。しかし、強い好奇心と持ち前の楽天的な性格から、不思議と未知の仕事に対する不安はなかった。

2021.07.24

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#003-1 ホスト1996年3月14日 「ネクタイなんて久しぶりだな。富士井電機の入社式以来4年ぶりか」 初出勤となるこの日、翔は久しぶりに袖を通すスーツの感触に適度な緊張感を感じ、気持ちが引き締まった。 「ホストって、どんな髪形にしたらいいんだろ…」 そう呟きながら鏡の前に立つと、耳に触れるくらいまで伸びた髪の毛にヘアーワックスをつけ、無造作に手櫛(てぐし)をいれながら髪型をセットした。出勤の1時間前には準備が完了していたが、手持ち無沙汰で落ち着かなく、結局、時間になるまでに5回もセットし直した。 翔が扉を叩いたホストクラブ「ブルーナイト」は、私鉄東武日光線の沿線にあり、都心へ通う通勤者のベッドタウンとして拓(ひら)けた町だ。ちなみに、翔の生まれ育った草加市も、その東武線上にあった。 店のある竹ノ塚は割に大きな町で、繁華街もそれなりに賑わっていた。キャバクラやホストクラブもかなりの数がある。翔が勤めることになった「ブルーナイト」は、竹ノ塚でも5指に入る老舗のホストクラブだった。赤を基調としたシックな店内には厚手の絨毯が敷かれ、天井からは豪華なシャンデリアが吊るされていた。

2021.07.24

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#002-9 野球翔は1年半勤めた運送会社を辞めて、広告に載っていたホストクラブ「ブルーナイト」に面接に行くことにした。酒が飲めず、ホストの世界がどういうものなのか、予備知識や情報がまったくないというのに。 現在(いま)よりも、ホストという職業が閉塞的だった時代だった。両親からは水商売の世界に行くことに猛反対された。申し訳ないと思いつつも、まだ見ぬ世界への好奇心が勝っていたのだ。面接し、採用が決まるとともに、これ以上面倒をかけたくないという実家と同じ草加市にある6畳ひと間のアパートで1人暮らしを始めた。こうして翔は完全にひとり立ちした。 後に“キャバクラの若き帝王”と呼ばれる輝咲翔のサクセスストーリーは、この時から始まる。 輝咲翔22歳を迎えたばかりの冬のことだった―。

2021.07.24

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#002-8 野球この数ヶ月間、翔の心の奥で疼いていたのは、このことだった。このままトラックの運転席でハンドルを握る人生でいいのか…。 『俺はまだ若い。もっと色んな人と知り合い、触れ合って世界を広めたい』 『もっと自分に合った仕事、自分が熱くなれる世界があるんじゃないか』 『金よりやり甲斐のほうが大切だ』 トレーラーの運転手をやろうか、ホストをしようか迷ったが、トレーラーは免許があるので、いつでも乗れるし、稼げる。人と知り合い、触れ合える仕事をしよう、それには接客業だ――短絡的だが、そう思った。早速買った求人誌には、様々な職業が載っていた。その中で翔の目に止まったのは『ホスト募集』の文言だった。

2021.07.04

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#002-7 野球トラック運転手としてステップアップするに合わせて給料も上がり、20歳(ハタチ)の時、木屑を運ぶチップ車と呼ばれる大型トラックを運転する翔の給料は50万円を超えていた。この頃、翔は金銭的にも満たされ、仕事の中に責任とやり甲斐を見出すこともできていた。しかし同時に、何か物足りないもどかしさが―焦りにも似た疼(うず)きが胸の奥に巣食い始めているのを感じていた。 それが何なのかに気付いたのは、チップ車に乗るようになり1年が過ぎた頃だった。その日、翔は荷積みして京葉道路を走っていたところ、無線を通じて男の声が入ってきた。トラック運転手の間では、長距離運転の退屈しのぎや眠気覚ましのために、無線を使って見知らぬ物同士が会話をするという業界特有のコミュニケーションがある。 翔はいつも通り、その会話に付き合っていた。だがその時、ふいに気付いた。自分の生活の中で、直接、顔と顔を向き合わせて会話をすることがいかに少ないかということを。こうして無線を通じて顔も知らない人と話している時間がなんと長いことか。 業界に馴染めば馴染むほど、その度合いは高まり、誰とも顔を合わさず、無線だけの会話で1日が終わることもある。この仕事をずっと続けたら人と知り合う、触れ合う機会はどんどん減っていくだろう。それでいいのか…人と知り合わなければ、世界がどんどん狭くなる…それでいいのか。

2021.07.04

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#002-6 野球富士井電機を半年で辞めた翔は、幼なじみの大平の父親が経営する運送会社でトラックの運転手として働き始めた。 野球ができる機会は地元の草野球で月2回程度に減ってしまったが、それまで工場の中に籠(こ)もって仕事をしていた翔にとって、見知らぬ土地に行けるトラック運転手という仕事は新鮮だった。給料も格段に良くなったし、何よりも高い位置にある運転席からの視界は気分が良かった。 最初は普通免許でも運転できる2tトラックで東京近郊に一斗缶を運んでいたが、次第にもっと大きなトラックを運転したくなった。入社から半年経つ頃には、大平社長に他の運送会社を紹介してもらい、そこで4tトラックを運転するようになった。 それを運転しているうちに、さらに大きなトラックを運転したくなり、大型とけん引、大型特殊と3つの免許を取ると1年後、またも紹介してもらった別の会社へ移った。

2021.07.04

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#002-5 野球だが、翔は文句を言うことはなかった。他にしたいことがない以上、この仕事をするしかないと思っていた。そして「どうせやるならキッチリした仕事をしなければ」と自分に言い聞かせていた。 そんな生活が半年続いたある日、翔はあることに気付いた。それは自分と同じようにベルトコンベアーに向かっている作業員たちが、自分の両親と変わらない歳の人たちばかりだということと、パートのおばちゃんでもできる仕事だということを。 その瞬間、翔の脳裏に、その歳になった自分が今と同じ場所で同じ様に青いつなぎの作業着を着て働いている姿が浮かび、愕然とした。誰にでもできる仕事を今やらなくてもいいのではないか。そして、自分もあの歳になるまで、こうして毎日を過すのかと思った途端、感じたことのない将来への不安が心の中に広がった。

2021.07.04

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#002-4 野球卒業を控え、自分の行く先が見つからなかった翔は、高校の就職課の勧めに従い、流されるままに電子部品メーカー「富士井電機」の日野工場に就職することにした。選んだ理由はただ1つ、実業団野球があったから。先は見えずとも、野球が好きだという気持ちだけは萎(な)えなかったのだ。 こうして翔の社会人生活は週2回、午後6時から8時までの野球を中心に始まった。実業団野球の大会では、東京ドームのピッチャーマウンドを踏んで感激した。自分が憧れた幾多の名選手たちが立った場所に自分も立っている、と。 しかし、充実する野球生活とは裏腹に、工場での仕事は変化のない単調なものだった。朝9時から夕方5時までベルトコンベアーに乗って流れてくる部品を、ただ黙々と組み立てるだけ。それに加えての薄給。

2021.06.15

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#002-3 野球学生時代の、とりわけ高校時代の翔は、お世辞にも教師に気に入られる様な生徒ではなかった。とにかく勉強嫌いで、教壇で話す教師の声は子守唄以外の何物でもなかった。当然、成績は学年でも下から数えた方が圧倒的に早かった。 カンニングが見つかり停学処分も受けた。学校で禁止されているアルバイトも隠れてやった。パチンコ店の店員だ。それを偶然、パチンコをしに来た担任教師に見つかり、またも停学。学校に届けを出さずにバイクの免許を取ったのがバレて、またまた停学…。 悪(ワル)の不良という訳ではなかったが、間違いなく優等生ではなかった。しかし、早退することはあっても遅刻することはなかった。遅刻するということは、なんだかだらしないことの様に思えたからだ。小・中・高と12年間、遅刻したことがないというのが密かな自慢だった。 翔がそんな信念を持っていることなど周囲の誰一人として知らなかったが、とにかく、学生時代の翔は熱く吼えるようなことは絶対になく、無口で口下手なごく普通の生徒だった。

2021.06.15

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#002-2 野球酷い時にはセンターからライトまでの数十メートルの間、ビンタを受け続けたこともあった。そうして耐えて努力し続けたが、レギュラーにはなれなかった。人生最初の挫折といっていい。 ほとんどの人間が経験する最初の現実― ヒーローになれると思っていたのになれない自分がいる。その現実を受け入れ、一歩、大人に近づかなければならない悲しい瞬間。 しかし、翔はその現実を素直に認め、受け止めた。だが、この少年が少し違っていたのは、そこで終らなかったことだ。野球ではヒーローになれなくても、自分には違う可能性があると信じた。 とはいえ、この時点では何も見えていなかった。野球という人生の目標が消えた今、これから自分が何を目指したらいいのか分からない。具体的な道は見えていなかった。

2021.06.15

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#002-1 野球輝咲翔は1973年11月15日、埼玉県草加市に公務員の父、専業主婦の母、3人の兄という、ごく普通の家庭に生まれた。 兄たちとは9歳、5歳、3歳と年が離れていたことから喧嘩することも少なく、両親からも可愛がられて育った。そのため性格的には和やかな、オットリした人間が形成された。 翔が青春時代、最も打ち込んだのは野球― 次男がやっていたことから影響を受けて物心つく頃から始めた。かなりの素質はあったようだ。リトルリーグで不動のエースで4番。高校は埼玉県下で強豪校といわれる川口中央工業へ野球で入った。将来はプロ野球へという夢を抱いて…。 だが、ほとんどの人間の前に立ち塞がる〝青春の壁〟は、少年・翔の前にも立ちはだかった。地元では不動のエースで4番だったが、県内の優秀選手が集まる強豪校ではレギュラーにもなれなかった。 それでも翔は卒業するまでの間、片道40分の高校までの距離を自転車で通いながら、諦めることなく全力で野球に取り組んだ。帰宅後のランニングは毎日怠らなかったし、一年生の頃には体育会系特有の先輩からの体罰にも耐えた。

2021.06.15

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#001-4 総帥「大連って、中国の大連ですか?」 「うん」 「な、何でまたそんな…」 「この間、中国でビジネスを展開している人に誘われて大連に行ったんだけど、日本人もすごく多いんだ。そこで、この街で日本スタイルのキャバクラやったら繁盛ると思う。成功するかどうか分かんないけど、やってみたいんだ」 「外国で、ましてや中国というリスクの高い国に店を出すなんて…」 一同はあ然と青年の言葉を聞いていた。そして思った。 (またいつもの病気が出たな…) 更に一同は思った。 (一度言い出したら聞かない人だからな…) 幹部会はこの青年の提案を了承・可決した。 そして半年後、青年の言葉は現実のものとなり「K大連」はオープンし、大盛況を迎えたのである。 この大業を成し遂げた青年こそ、30代にしてナイトビジネスからアパレル、旅行代理店、自動車販売業、IT関連ビジネスまで手掛ける、 「KIZAKIグループ」総帥・輝咲翔である。 だが、今でこそ、500人のスタッフを誇る企業の頂点に立つ翔だが、10年ほど前は町工場で働く、ごく普通の青年だった。

2021.05.23

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#001-3 総帥広さ20坪程の部屋では会議が行われ、青年はその上座にいた。 日焼けした褐色の肌に耳まで隠れる茶髪。11月には30歳を迎えるという年齢の割には童顔に見える純朴そうな顔。一見すると、どこにでもいる“イマドキの兄ちゃん”風で、無邪気さを秘めた子供の様な瞳が印象的だ。 会議は青年がオーナーを務めるキャバクラグループの月例会議だった。幹部たちは、売り上げやキャストたちの管理などについて、現在グループが抱えている課題とその対策案を報告していた。 このキャバクラグループは、都内には一店舗も店を持たず、千葉や埼玉などの首都圏で十数店舗を展開するという大成功を納めている異色の企業だった。 十数店舗を抱えるグループの幹部会なのだから、そこに抱える問題・課題は少なくはない。幹部たちはグループを維持していくための対策を必死で考え、会議に臨んでいた。 幹部たちが次々と発言する様を青年は無言のまま眺めていた。その子供の様な好奇心に富んだ瞳で。 報告が一通り終え、会議が途切れた時、青年は何の前触れもなく突如立ち上がった。 「僕から一つ提案があるんだけど」 一同は「何事だ」と言わんばかりに青年を見た。青年はその視線に臆することもなく淡々と言った。 「大連に店を出す」 「はっ!?」 突如、放たれたそのひと言に幹部たちは驚いた。

2021.05.23

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#001-2 総帥4ヶ月前―2003年7月、東京・六本木 陽も沈み“ネオン”という夜の陽が頭上に輝き出すと、不夜城といわれるこの街には、様々な人間が集まってくる。あたかも闇の中に灯る明かりに群がる浮塵虫のように… 政財界の人間が集うのが銀座なら、この街は芸能・マスコミ・広告業界など、いわゆる“ギョーカイ”の人間が集う街。接待から遊びまで… また、近隣に外国大使館や外資系企業が多いことから、外国人の姿も珍しくない。他にも意味もなくただやって来ては、クラブでひたすら踊り狂う無軌道な若者たち。更には、この街を主戦場とするキャバ嬢やホステス、ホストなどの“夜”を仕事とする人々や、夜の陰の主役・ヤクザたち。 だがその時は、まだ太陽の光が頭上から降り注ぐ午後2時。街の景色は夜とは一変し、家族連れや若いカップルで溢れていた。この4月に六本木ヒルズがオープンしたためだ。 その六本木ヒルズに程近いビルの一室に、青年はいた。

2021.05.23

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#001-1 総帥2003年11月、中国遼寧省大連市― この年の暮れ、大連のナイトビジネス界はある話題で沸き返っていた。それは大連初の日本企業による日本スタイルのキャバクラが誕生したからだ。 店の名は「K大連」。 高級感のある内装、そして教育が徹底されたプロのキャスト、黒服。そのスタイルは後進的だった大連のナイトビジネス界にとって大きな衝撃となった。 大連のナイトビジネス界は、この「K大連」に触発されて、それまでのシステム・サービスが一新され、大きく変化していくこととなる。 そんな海を挟んだ一大センセーショナルを巻き起こしたそもそもの始まりは、1人の日本人青年の思いついたようなひと言からだった…

2021.05.22

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