STORYSHO Kizaki

小説『帝王』より、帝王のストーリーをお届けします。

#012-6 蘇生―贅沢は贅沢ができるくらい稼げるようになってから。 それが翔の考えだった。そして、その考えのおかげで翔は23歳という若さで、次のステップへ進むための資金を持つ事ができたのだ。 「そこまで準備してあるなら仕方ない。あとは1人でいいから保証人を連れて来い」大家は折れた。 「保証人?」 初めて聞く言葉の様に翔は呟いた。 「そうだ。不動産を借りる時は、それが世間の常識だ。ちゃんと仕事をして家を持っている人。お前が何かあった時、代わりに家賃を払ってくれる人。それが保証人だ。そういう人間を誰か1人連れて来い」 「…」 それまでの勢いとは打って変わって、翔は沈黙した。 「どうした? たいした問題じゃないだろう。親御さんでもいいんだぞ」 「…いません」 「なに?」 「保証人になってくれるような人はいません。僕、トラックの運転手を辞めてホストになる時、親に猛反対されて半ば勘当されてるから、親に保証人は頼めません。他に保証人になってくれる人は思い当たらないし…」 思いがけない翔の返答に大家は驚いた。 「それじゃワシに限らず、どこからも不動産は貸してもらえんぞ」 「…」

2021.11.28

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#012-5 蘇生そう言うと額を畳みにつけた。普段はオットリしている翔だが、本気になった時は凄かった。何が何でもやってやる、押し通すんだという気迫が漲っていた。 駆け引きのない、真っ直ぐな言葉と熱意。ついさっきまで皮肉を浴びせていた大家だが、翔の気迫に圧倒された。 「お前が本気なのは分かった。だが、ワシもボランティアでやっているわけではない。その歳でちゃんと契約するだけの金はあるのか。家賃が月20万に、保証金が1年分、それに礼金が2か月分。合計で300万以上かかるぞ」 「大丈夫です。それくらいなら、これまでの仕事で貯めてあります」 (ほうコイツ、水商売のくせに金をちゃんと扱えるのか。思ったより、しっかりしてそうだな。チャラチャラしたブランド物も身に付けておらんし) 翔に対する大家の見方が少し変わった。この大家の金に対する考え方と、翔の考え方は通じる所があった。翔は酒、煙草は一切しなかったし、当時、ブランド物も全く持ってなかった。郊外という立地上、車は乗っていたが、それも国産の軽自動車だった。当時、翔の年収は700万を超えていたが、贅沢品には全く見向きもしなかった。

2021.11.28

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#012-4 蘇生「隣のビルの2階にあるシャルマンが入っている物件、僕に貸してもらえませんか」 「お前は、あそこで店長をしていたそうだな。家賃もロクに払えなかったくせに、また貸して欲しいと言うのか。随分とムシのいい話だな」 大家が翔に対して好意的でないのは明らかだった。 「確かに悟志さんは…飯田さんは家賃をお支払いしていませんでした。でも僕らは知らなかったんです。それに、売り上げは上がっていました。自分たちでやるようになったら家賃を滞納する事はありません。毎月ちゃんと払います」 「…そもそも、ワシはな、ホストクラブちゅうのが好きじゃないんじゃ。ホストという人種が嫌いなんだよ。男のくせに女に媚びへつらい金をもらう。男としての誇りも矜持も無い。恥かしくないのか!」 しかし、翔はキッパリと言い返した。 「おっしゃる通り、ホストは女性を相手にした仕事です。でも、媚びを売っているつもりはありませんし、へつらってるつもりもありません。今の時代、女性たちも社会に出て仕事をしています。男が仕事に疲れて夜の街に出て、女性のいる店に癒しを求めて行くように、女性たちも疲れを癒してくれる場所が欲しいんです。ホストクラブは、そういう場所の1つだと思っています。お客様が抱えている悩みや辛い気持ちを、僕たちの店にいる間だけでも忘れてもらい、明日も頑張ろうという気持ちになれるよう、一生懸命尽くさせてもらっています。男妾のような浮ついた考えはありません。僕も仲間たちも真剣です。だから、もう1度、みんなで自分たちの店をやろうと考えたんです。お願いです。店を貸して下さい!」

2021.11.28

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#012-3 蘇生こうして閉店を告知された翌日には、開店に向けて動き始めていた。 酒や食べ物の仕入れ先は既に確保されている。客へのリニューアルオープンの連絡は各々ですればいい。店内の準備は昨日まで使っていたもので充分。今まで悟志がやっていた金の管理方法は、やりながら憶えるしかない。すべき事はただ1つ、不動産の契約だ。翔はそう結論した。 酒も煙草もやらず浪費癖もない翔には、トラックの運転手時代、ホスト時代、そして店長の仕事を経て、不動産の契約料を払える程度の貯金はあった。 早速、翔はシャルマンの入っているビルの隣に在る大家の元を訪ねた。居間に通された翔は畳の上で正座し、大家と対峙した。大家は竹ノ塚にいくつもの土地や建物を持つ資産家で、地元の名士だった。還暦を迎え、白い髭をたくわえ、和服に身を包んだその姿は、頑固で厳格さに満ち溢れていた。だが、翔は物怖じする事なく会話を切り出した。

2021.11.21

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#012-2 蘇生上半身を起して叫んだ。希望が湧いてきた。顔にまた活力が漲ってきた。「みんなとまた店がやれる。店を続けられる」そう思うと、沸き起こる興奮を抑えきれず、受話器を持つと仲間たちに片っ端から電話をかけまくった。 「もしもし、太田か。翔だけど―」 「達也さん、翔だけど…店は続けるよ」 「修さん、店は僕がオーナーになって続けるから、また助けて下さい」 「みんなで、あの店、もう1度やろう。今度は俺たちの店としてやろうよ」 翔の電話を受けた太田たちは思った。 (そういえばアイツは昔っから無鉄砲で、思いつきで行動する癖があったよな) 達也は思った。 (店を続けるってか…良かった。今さら、ブルーナイトには戻れねぇもんな) 修も思った。 (翔がオーナーか。こうなったら、とことん付き合うぜ) そして、他の仲間たちは言った。 (翔がやるなら、俺たちは喜んで付いていくよ)

2021.11.21

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#012-1 蘇生シャルマンの終わりを告げられたその日、疲れ切って草加のアパートに帰ったにもかかわらず、翔は布団に入ってからも頭が冴えて眠れなかった。 「半年で得たもの…」 悟志の言った言葉が頭の中で反芻された。 「やっぱり、みんなと知り合えたことだよな…」 仕事をしている時が1番楽しいと思えた。それは苦楽を共にしている仲間たちがいたから。みんないいヤツばかりだった。好きだった… 「でも、店がなくなった今、みんなどうするんだろう。達也さんたちは、またブルーナイトに戻るのかな。修さんなんて、この店のために仕事辞めたんだろ。太田だって、仕事が失くなった」 なぜか考える事は自分の心配ではなく、仲間たちの事だった。 「もっと、みんなと仕事がしたいな…」 そう呟いた時、翔は自分の言葉が耳に入りハッとした。 「それなら、店を続ければいいんじゃねぇのか」 そう思うと、答えは単純な話じゃないかと感じた。元々、シャルマンに売り上げはあった。ただ、借金があったから続ける事ができなかった。それは悟志がオーナーとして始めたのだから仕方ない事だった。でも、借金も何もない自分がやるのなら、シャルマンの売り上げは純粋な売り上げになる。店もそのまま自分が契約して居抜きで借りれば準備費用は限りなくゼロで済む。すぐにでも始められる。 「そうだ。俺がオーナーになればいいんだよ」

2021.11.21

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#011-9 失意「本気で何とかしたい、何とかできると思っているのが分かったよ。ホストとして客である恵の気を引こうとしているとか、そういう打算じゃなく、本心から言ってくれているとね。その時、思ったんだ。『無関係なはずの翔君がここまで真剣にウチの店の事を想ってくれている。どのみち店を畳む事になるのなら、ここまで言ってくれた翔君と一緒に行けるとこまで行ってみよう』と。翔君やみんなのおかげでシャルマンができて、ギャルソンズの売り上げも伸びた。そのおかげで今日までやって来る事ができたんだ」 「悟志さん…」 「みんなの努力を不意にしてしまって本当に申し訳ない。でも、もしこの半年の間に少しでも何かを得る事ができたのなら、それを大切にして次に活かして欲しい…」 それが悟志の最後の言葉となった。悟志はギャルソンズとシャルマンを閉じると、2度と翔たちの前に姿を現す事はなかった。

2021.11.14

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#011-8 失意「…」 翔たちは何も言い返せなかった。そして悟った―店が終わることは、もう避けられない事なんだと。頭を下げ続ける悟志を見て、悟志が今日まで1人で苦しんできた事を理解した。すると、翔の中でさっきまで渦巻いていた悟志を責め立てるような感情は消え失せていた。代わりに、どうする事もできない現実に打ちのめされ、力なくうつむいた。仲間たちも同じ気持ちでうつむいた。 悟志は、そんな翔の姿をそれまでの悲しそうな瞳ではなく、なぜか優しげな瞳で見つめた。そして穏やかな口調で話し始めた。 「キミが娘に連れて来られてギャルソンズで働きたいと言った時のこと、今でも憶えているよ。あの時、キミは『この店の魅力をみんなに知ってもらいたい。そのために自分にも何かできる事があるかもしれない。それを見つけるために、ここで働かせて欲しい』そう言ってくれたよな」 翔は静かに頭を上げた。他の仲間たちも同じように顔を上げ、悟志を見た。

2021.11.14

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#011-7 失意言っている意味が理解できないといった感じで、悟志の言葉を繰り返した。 「ああ…実は、この1年間、ここの家賃はほとんど払えてないんだ。だから、大家の方から今月いっぱいで解約にすると言われて」 「そんな…だって、ちゃんと稼いでいたはずですよ。ギャルソンズだって。シャルマンができてからは、以前よりお客さんも増えたじゃないですか。それなのになんで」 納得できない翔は悟志の両肩をつかんで揺すりながら答えを求めた。そんな翔に悟志はか細い声で言った。 「そのおかげでここまでやれたんだ」 「え!?」 悟志の言葉に翔はそれまでの熱が冷めたかのように固まった。悟志は哀しそうな表情で言葉を続けた。 「本当は6ヶ月前、翔君がウチの店に来たいと言った時には、既に借金がどうしようもない額にまで膨れ上がっていたんだ。輝咲君が来てくれて、シャルマンができてからは売り上げも伸びはしたが、それでも借金の額からしたら焼け石に水だった。半年前までは利子すら返せていなかったのが、最近は何とか利子だけは払えるようになった。でも、そこまでだ。元金と滞納した家賃を支払うまでには到底、至らなかったんだ。俺にはもう自己破産するしか他に道がなくて」 「でも、恵さんはそんな話、ひと言も…それに、どうして俺に何も話してくれなかったんですか?」 「すまない…どれだけ売り上げを伸ばせたとしても、こんな小さな店だ。借金を返していく事は到底、不可能なこと。いつかは必ず終わりが来る。そんな事を考えながら、若いキミたちに仕事をさせたくなかったんだ。娘にも今日まで借金の事は話していなかった。本当に申し訳ない」 「…」

2021.11.14

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#011-6 失意「俺たちは本気でこの仕事に打ち込んで来たんです。ホストの事を水商売だ、男妾だと悪く言う人間もいる。それでも俺たちは、この仕事に誇りを持って頑張ってきたんです。それが『どうしようもない』のひと言で片付けられるなんて。悟志さんは俺たちがそんな程度の気持ちでやってきたと思ってたんすか。契約が切れるなら再契約すりゃいいじゃないですか」 感情剥き出しにそう言いながら悟志に詰め寄る翔の姿に、仲間たちは誰よりも翔が1番本気でこの仕事に臨んでいた事を実感した。そして、その翔の行き場を失くした想いを、痛みを我が身に感じていた。 (これからだと思ったんだ。みんなと、もっともっとやっていけると思ったんだ。この場所で…それなのに…なんで…)  翔の叫びは自分自身のためではなかった。踏みにじられた仲間たちの努力のために叫んでいた。 「悟志さん、答えて下さいよ」 その翔の痛みを全身に受けながら悟志は黙っていた。そして口を開くと、ゆっくりと話し始めた。 「翔君たちが本気でやってきてうれたのは俺だって充分理解している。再契約できるならしたい。でも、ここの契約は“切れる”じゃなく“切られる”んだ」 「切られる?」

2021.11.07

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#011-5 失意店内にいる誰もが言葉を失った。いや、悟志の言葉の意味が理解できなかったと言った方が正確だった。 (シャルマンが閉店。何で店を閉じなくちゃならないんだ) 翔の頭の中では、そんな疑問がグルグルと渦巻いていた。それは恐らく1分にも満たない時間だったのだろうが、何十分、何時間にも思える程の時間だった。それは他のスタッフたちも同じだった。ようやく少しの冷静さを取り戻すと翔は口を開いた。 「何で閉店しなくちゃならないんですか。売り上げは悪くなかったはずです。閉めなきゃならないなんて事はないはずです」 静まり返った店内に響いたその言葉は、その場にいた誰もが思っていた事だった。 「みんなは本当によくやってくれた。でも、どうしようもないんだ。この店の不動産契約が今日で解約される。これ以上、続ける事はできないんだ」 「だからどうしてですか?」 翔は声を荒げていた。普段、感情の起伏を見せない翔の怒気を含んだ声にスタッフたちは驚き、翔を見た。

2021.11.07

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#011-4 失意しかし閉店後、それに賛同してくれると思っていた悟志の口から吐き出された言葉は、翔が予想だにしない言葉だった。 閉店後の店内では、スタッフのホストたちが疲れ果て、ソファーで死んだように倒れている者、頭に冷たいオシボリを被り、酔いを醒まそうとしている者など、緊張の糸が切れてグッタリしていた。店を訪れた悟志は、そんなスタッフたちの前に立つと神妙な面持ちで口を開いた。 「みなさん、ご苦労さまです。今日はみなさんに大事な話があります」 その沈んだ声に、ただならぬ雰囲気を感じ取ると、疲れ切っていたスタッフたちも何事かといった様子で起き上がり、姿勢を正して次の言葉を待った。 その大事な話というのが何なのか…。聞かされていなかった翔も他のスタッフたちと同じように次の言葉を待った。 「みなさんには申し訳ないのですが、本日をもってシャルマンは閉める事になりました」 「…」

2021.11.07

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#011-3 失意翔は店長として、仲間たちを差配してきただけに、彼らがどれだけ店のために頑張ってくれているかヒシヒシと感じていた。いい加減な気持ちでやっている者が誰1人としていないと分かっているだけに、その気持ちに自分も応えたいと考えていた。 努力に見合うだけのポジションやお金、つまりインセンティブを設けることによって、スタッフたちのモチベーションはさらに高まる。努力に見合う結果は、さらに頑張るための原動力になる。さらに頑張れば、それに見合った結果をまた出せる。そうやって、店の売り上げが増えるのと同じ歩幅で、スタッフの最低保証の給料もアップさせて行きたいと翔は考えたのだ。 中間たちと店を発展させながら、みんなでお金を稼いでいく。翔の頭の中では、これからの期待に夢が膨らんでいた。

2021.10.31

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#011-2 失意―1997年5月31日 5月最後の営業日。締め日であるこの日は、週末の土曜という事もあって、いつも以上に賑わっていた。 客席が少ないとはいえ、満席となった店内を見渡し、翔は思った。開店から半年が過ぎ、店の基盤も固まり安定してきたから、スタッフの給料を上げてもらえるように悟志に頼もうと。売り上げについては悟志が回収・管理しているので具体的には分からなかったが、客入りも良いし、ホストに“ツケ”などの売り掛けもさせていないので、認めてもらえるだろうと考えていた。 そんな事を考えている時、客席の達也から声がかかった。 「店長、ドンペリ頂きました」 いったん翔は奥に戻ると、高級シャンパンのドン・ペリニョンと、シャンパン特有の細かい泡を楽しむための細長いフルートタイプのシャンパングラスを2つ用意し、達也の席へと運んだ。 最近では1本3万円もするドンペリもオーダーがコンスタントに入るようになっていた。それは単に、スタッフたちの努力によるものだった。

2021.10.31

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#011-1 失意その後もシャルマンは、開店初日ほどとまではいかないまでも上々の繁盛ぶりだった。翔の目論見通りシャルマンの客はギャルソンズにも還流し、ギャルソンズで一杯飲んでからシャルマンへという客の流れができていった。 翔の店長としての真価も、日が経つにつれ発揮されていった。ホストの世界では指名客を「幹」と呼び、その幹が連れて来た客の事を「枝」と呼んだ。翔は指名がなかなか取れないホストには、客の雰囲気を伺いつつ、積極的にヘルプに着かせ、「枝」を掴むチャンスを与えた。 また、ホストが客に対して粗相をする事があれば、その場で裏方に呼び注意した。閉店後などに注意しても本人は何をしたか忘れてしまっているかもしれないからだ。もしかしたら、気分だけ害して、翌日からの仕事に支障をきたすかもしれない。だから、その日のミスはその日のうちに注意した。 指摘を受けたホストは、何がいけなかったのか実感を持って知ることができたし、客に対してすぐに粗相のケアをする事ができた。 こうして大きなトラブルが起きる事もなく、順風満帆に思えた半年はあっという間に過ぎていった。 しかし、これが嵐の前の静けさだとは、この時、翔は知る由もなかった。

2021.10.31

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#010-3 飛躍翔は、この重要な付け回しを初めてとは思えないほどスムーズに行う事ができた。ギャルソンズでウェイターとして働いているうちに、同時に複数の客席に気を遣う術を身に付けていたのだ。 1度「やる」と決めた事は、どんな事でも納得するまで一生懸命にやり通す事ができる。だからこそ、それが力となり次へとつながる―翔自身、気付いていなかったが、これこそ翔が後々、成功する事ができた最大の秘訣だった。 この日、早い時間はギャルソンズの常連客が大半を占め、遅い時間は翔や達也たちのブルーナイト時代の客が中心となった。そして閉店時間の朝6時まで、この人の流れは途絶える事がなく、翔の店長初日は、この上ない好調な滑り出しを見せたのである。

2021.10.24

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#010-2 飛躍翔とは対照的に、スタッフたちは漲る気合いを返した。 「よろしくお願いします!」 翔の気負った様子が微塵も感じられない様は、大物だからか鈍感だからか。どちらにせよ、この2週間前に23歳の誕生日を迎えたばかりとは思えない、その落ち着きぶりに、スタッフたちも緊張せずに開店を迎える事ができた。 8時の開店と同時に、隣のギャルソンズで待っていた常連客たちがなだれ込み、7席あるボックス席は一瞬で満席となった。それでも、まだ入りきれない客でギャルソンズは満席だった。 翔はホストとして客席に着くこともあったが、基本的には店長兼ホール係として、ドリンクなどをテーブルに運ぶ役と、どの席にどのホストを付け、どのタイミングで交代させるかなどを判断し指示する“付け回し”に専念した。 客がつまらなそうにしていないか。会話が盛り上がっているか。もう少し席に付けてれば指名がもらえそうか。ホストに限らず水商売では、店が繁盛するためには、良いホスト・キャストが揃っているのと同じくらい付け回しは重要だった。 「修さん、3番テーブル・恭子さんの席、お願いします」 「達也さん、1番テーブルにヘルプお願いします」

2021.10.24

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#010-1 飛躍―1996年11月29日 ビルの入り口からシャルマンへと通じる階段・通路には、出入りの業者やギャルソンズの常連客、古巣のブルーナイトなどから出された開店祝いの花がズラリと並んでいた。そして、客たちは6時を過ぎた頃から姉妹店のギャルソンズに集まり、夜8時の開店を待っていた。 カウンター席やテーブル席で開店はまだかと待つ客たちは、楽しみを抑えきれない様子で、カウンターの中の悟志や恵と話をしていた。 「いよいよ今日かぁ…翔ちゃんの店長デビュー」 「翔君もだけど、悟志さんも恵ちゃんも、今日に向けて大変だったのを見てきたから、なんか俺たちまで緊張しちまってるよ」 「ここの常連だった修のヤツもホストやるってんだろ。アイツに務まるのかよ」 一方、開店を30分前に控えたシャルマンの店内では、久しぶりにホストの仕事用のスーツに身を包んだ翔の姿があった。 翔は太田や修、達也たちの前に立つと緊張した様子もなく、いつも通りの淡々とした調子で挨拶した。 「みんなのおかげでシャルマンも何とかオープンに漕ぎつける事ができました。でも、今日からが本番です。よろしくお願いします」

2021.10.24

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#009-3 人徳自分がブルーナイトに入った時のように、求人誌や折込チラシに募集広告を載せるか。だが、それには金がかかる。経済的には余裕のないオーナーにこれ以上の負担を強いる事はできない。 10月も半ばを過ぎ、開店の日は刻々と近づいていた。店の内装は着々と進んでいたが、ホストの確保は1人もできていなかった。さすがに悟志も恵も不安になった。 「翔君、大丈夫なの? 1人もホスト決まってないけど」 「知り合いとか友達に声かけてるから近いうちにはなんとか…」 確かに声はかけていた。だが、素人がいきなりホストの世界に飛び込むのは、かなり抵抗感のある事だった。 更に数日が経っても進展はなかった。いくら楽観的な翔でも、さすがに焦り始めていた。 (ここまで準備ができて、俺が1人もホストを集められなかったら…) 責任が重くのしかかって来たが、光りは一向に見えなかった。だが、開店1週間前、一気に愁眉が開いた。救ってくれたのは、ギャルソンズの常連客と、かつての同僚、そして昔からの友人、人と人との繋がりだった。

2021.10.17

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#009-2 人徳シャルマンは、その月の最後の金曜日、29日の開店を目指し、翔と悟志と恵の3人はギャルソンズの営業と平行しながら、ホストの確保と開店の準備にとりかかった。 ソファー、テーブル、冷蔵庫等が居抜きで残っており、キレイにすれば充分使えるといった状態だったので店の準備は、壁紙と床の張替え、それに照明器具の取替えだけで済んだ。 だが、問題はスタッフ、ホストの確保だった。店の広さから考ええると、翔を入れても最低7人は必要だった。ホストクラブの運営は自分が何とかするとは言ったものの、翔はどうやって人を集めたら良いのかわからなかった。 夜の世界に入ってわかった事、学んだ事はいっぱいある。その中でも“水の世界”は“人”が全てという事。クラブやキャバクラならホステスで、ホストクラブならホストで優秀な人材をそろえなければ客は来ない。客が来なければ店は潰れる。シャルマンの成功は単に、翔がいかに優秀な人材を集められるかにかかっていた。その優秀という言葉の中には、容姿はもちろんの事、性格の善し悪しも含まれていた。ブルーナイト時代、蓮とのトラブルを経験していた翔は、その点だけは痛い程わかっていた。 (どうやって人を集めればいいんだろう。ゼロから立ち上げる店を全部知らない人間で固めるのは不安だし。だからと言って、ホストの知り合いといったらブルーナイト時代の仲間しかいないけど、業界のルール・マナーとしても引き抜くわけにはいかない)

2021.10.17

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#009-1 人徳新たに開く事になった店はフランス語で“魅力的”という意味の「シャルマン」と名付けた。開店に必要な資金と店舗運営上必要な資金はオーナーの悟志が管理する事になり、翔は店を取り仕切る店長を任され、営業だけに専念する事になった。 最初、翔は男女とも楽しめるように、女性用のホストクラブと男性用のクラブを開こうとも考えたが、自身がホストクラブしか知らない以上、身の丈以上に背伸びをするのはやめ、ホストクラブの成功に全力を尽くす事にした。 シャルマンを開くにあたって、まず翔がやらなければならなかった事は、現在務めているブルーナイトへの退転の報告・挨拶だった。 「ホストクラブをやる事になったからウチの店を辞めたい?」 「ハイ。いろいろと事情があって…ギャルソンズのオーナーがやる事になったので、それを手伝う事にしました」 「場所はどこだ」 「それが…竹ノ塚です。ギャルソンズの隣の店舗が空いているので、そこで」 「じゃ、ウチのすぐ近くじゃねぇか」 「そうなります…」 「てめぇ、ウチに喧嘩売る気か」 「そういうつもりはありません。たまたまギャルソンズのオーナーから頼まれたんで…」 「まぁ、そういう事は誰にも止められねぇよな。仕方ねぇから認めるが、競合店を作る事になるんだから、当分の間、ウチの連中には黙ってくれや」 こうして翔はブルーナイトを辞めた。月は11月に変わり、季節も秋から冬に移ろうとしていた頃だった。

2021.10.17

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#008-2 感得翔が働く以前のフロア係は女性ウェイトレスだった。だから男の客が多かった。だが、翔が勤め出してからは女性客がうなぎ上りに増えていたのだ。この現象を見てオーナーの悟志は言った。 「フロア係が女だと男の客が来て、男だと女の客が来る。両方の客を拾えたら店は繁盛するんだがなぁ」 その言葉に翔の頭の中で何かが弾けた。 (ギャルソンズは正直言って、たいして繁盛(はや)っていない。オーナーが言うように、両方の客を呼び込めたら、もっと商売になる) 翔にある考えが閃いた。それを意気込んで悟志と恵に話した。 「ホストクラブをやりましょう!」 「はっ?」と2人。 「隣の倉庫代わりに使っている店舗をホストクラブにすれば、このバーとお客を共有できるじゃないですか。ホストをバーに置けば女性客は来る。それをホストクラブに誘導する。あるいは同伴やアフターでバーを使う。お客を還流させながら、両方の店を活かして売り上げを挙げるというのはどうですか?」 その説明に恵はすぐ飛びついた。

2021.10.10

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#008-1 感得ブルーナイトでのトラブルも落ち着き、ギャルソンズで働き始めてから2ヶ月が経とうとしていた10月の終わり、ギャルソンズは様変わりし始めていた。男性客に混ざって女性客が1人で来る割合が多くなっていたのだ。明らかに“翔効果”だった。女性客たちは言った。 「この店、以前に来たことあるけど、その時は客が男ばっかりで落ち着かなかったんだ。でも今は1人で来てもゆっくり飲める様になったものね」 「翔君がいるからよ。翔君が話し相手になってくれるから…」 「この店に来た友達から聞いて来たんだ。『ギャルソンズって店にイイ感じの男の子がいるよ』って。これからは友達も連れて来るね」

2021.10.10

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#007-10 確執それまでの翔は無口で、見た目も地味な大人しい目立たないホストだった。客との関係も、どちらかといえば全て“受け身”というスタイル。それが、この流言をハネ返すために、自ら積極的に客にアプローチし、いわゆる“攻め”の営業をするようになった。それが客たちにウケて、口コミで広がり、翔を指名で来る客が増えたのだった。そして気がつけば、翔はブルーナイトのナンバーワンになっていた― 一方、翔を嵌めようとした蓮は、その浅慮が客に見透かされ、そのさもしい心が露見されて、客足は次第に遠ざかっていった。翌9月の売り上げでランキングから落ちると、プライドの高さも手伝って、自らブルーナイトを去っていった。 この事で翔は学んだ。他人の非や弱点を論(あげつら)って足を引っ張る、蹴落とそうとするのは愚かな事だ。そんな事をするより、自分の力をつける事だ。自分に実力があれば、周りが何をしても揺らぐ事はないのだという事を―

2021.10.05

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#007-9 確執ホストクラブに来る女性たちは、ホストに恋愛感情を抱いている事が多い。本物であろうと仮想であろうと。そういう関係で成り立っている世界なのだから、お目当てのホストに彼女ができて、店に来るのが遅くなっていると聞かされる事は不快だし、ショックなのだ。足が遠退くのは当然のことだった。 「理由は訳があって言えませんが、そんな浮ついた気持ちでこの仕事をしている訳ではありません」 翔は言い訳も、自己弁護も一切せず、これまで以上に真摯に、そして積極的に客と接する事に務めた。結果、誤解は次第に解けていった。それどころか、それまで以上の成果が出始めたのだ。

2021.10.05

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#007-8 確執「俺は今まで通り、自分にできる事を全力でやるだけ。蓮さんが裏でどんな事をしていても、そんなものに揺るがされない関係をお客さんと作ればいいだけの事だから。今回の美香さんの件は、それだけの関係しか築けなかった俺のミスです」 力の違いを結果で見せる―。翔の口から紡がれた言葉に達也は、翔の内に秘めた芯の強さを感じ、それ以上、返す言葉がなかった。 この逆境が翔にとっては刺激となった。それからの翔は2足のわらじを履きながらも、客とのコミュニケーションを、これまで以上に取るようにと務めた。ブルーナイトにいる時間が少ない分、自分から積極的に客と連絡を取りプライベートの時間にも会うようになったのだ。 そして、店から足が遠退いていた自分の客と会っていく中で、達也が言ったように、蓮が裏で虚言を流しまくっていた事が明らかになっていった。 「翔君があんまりお店にいないのは、彼女ができたからじゃなかったの?」

2021.10.05

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#007-7 確執確かに翔はギャルソンズで働き始める際、ブルーナイトの店長から、その事を客には言わない事を約束させられていた。翔に会いたい客がそっちに流れる事を恐れたからだ。しかし、その事を逆手に取って足を引っ張る者が出て来る事は予想だにしていなかった。 「でも、何で蓮さんが…」 「あの人、プライドが高(たけ)ぇだろ、ホスト一筋だし。それなのに新参者の翔にランキングで抜かれたから、その腹いせなんじゃねぇか」 蓮はブルーナイトの中でも古株で、ホストたちの仲でも幅を利かせている存在だった。蓮が翔の客に虚言(ウソ)を流している事を誰も翔に伝えなかったのも、蓮を敵に回したくなかったからだった。 「どうすんだよ。このまま放っとく訳にいかねぇだろ。なんなら俺、力になるぜ。俺も蓮の野郎は気に喰わねぇと思っていたからよ」 翔は、しばし考えると、心配してくれるこの友人に、ひと言だけ返した。 「いいよ。このままで」 「ハァ!?このままって…お前、尻尾巻いて逃げんのかよ」 当然、達也は納得できなかった。しかし、翔は怒りを見せる素振りもなく淡々と力強く言葉を続けた。

2021.09.26

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#007-6 確執2人は近くのファミリーレストランに入った。 「話したい事って何ですか?」 出されたコーヒーが半分くらいなくなった頃、翔は切り出した。すると達也は真剣な顔になって、 「蓮さんがお前の客にちょっかい出してるって知ってる?」 「ちょっかいというか…美香さんが蓮さんと同伴したのは実際に見たから知っているけど、でもあれは俺が仕事を掛け持ちしてるせいで不満を持った美香さんを蓮さんがフォローしてくれた訳だし」 「バァカ! そんな訳ねぇだろうが。お前はどこまでお人好しなんだよ。蓮さんは、お前がバーで働いている間にブルーナイトに来たお前の客に片っ端からアプローチしてんだよ」 「まさか…」 「大体、お前の客はお前がバーで仕事してんのは知らねぇだろが。それなのにどうして、お前に不満持つんだよ。蓮さんのヘルプに付いたヤツが言ってたけど、お前が最近0時まで来ねぇのは女ができたからだって客に言ってるらしいぜ。他の席でも同じ事を言ってるはずだ。蓮さんに指名替えしないまでも、最近、翔の客が店に来なくなったのは、絶対そのせいだって」 「…」

2021.09.26

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#007-5 確執アパートに戻った翔は布団の上に寝転んだまま考えた。 ―片手間にホストをやっているヤツに… 自分にできる事は何でもしてみたい。でもそれが周囲には片手間にやっているように見えていた。だからホストを一生懸命やっている蓮の怒りを買ってしまった。美香もきっと自分がギャルソンズでバイトしている事を不満に思っていたのだろう。だから蓮に指名替えしたんだ。そう思う事にした。いや、そう思って諦めるしかなかった。 だが、この事件はそんな浅いものではなかった。 その日、翔はいつもより早く草加のアパートを出て店に向かった。理由は別にない。早く目が覚めたから。 草加の駅に向かって歩いていると「翔!」と呼び止められた。振り向くとブルーナイトの先輩で同じ草加に住んでいる達也の姿があった。 「早いな。もう出勤か」 「なんだか眠れなくて…早く起きちゃったから店に行こうかと思って」 「そうか…じゃ、ちょっと茶でも飲まねぇか。話してぇ事あっからさ」 達也は先輩といっても20代前半で翔と歳は変わらなかった。30歳前後が多いブルーナイトの中では若手という事で仲が良かった

2021.09.26

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#007-4 確執蓮さん、ちょっといいですか」 翔は蓮に文句を言うつもりはなかった。ただ、自分が美香に、そして蓮に何か失礼・非礼な事をしてしまったのではないかという事を確かめたかった。しかし、そんな翔の気持ちなど微塵も興味のなかった蓮は振り返ると、まるで喧嘩腰で言葉を返してきた。 「何だよ。客を取られた腹いせか」 「そ、そんなつもりは…」 「ホスト業界は永久指名がルールだが、ウチの店は永久指名制じゃねぇんだ。なんの問題もねぇよな。テメェみてぇに片手間にホストやっているヤツに美香は愛想を尽かして、俺を指名したんだよ。店長も店の客を減らさなくて済んだと喜んでくれているよ。あのまま放っといたら美香は他のホストクラブに行っていたからな」 鋭く尖った言葉を一方的にぶつけると、蓮はその場を去って行った。 「…」 翔は呆然として、しばらくその場から動けなかった―

2021.09.26

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#007-3 確執しかし、翔には蓮の視線の理由が分からなかった。先輩ホストである蓮とは、特に仲が良い訳ではなかったが、険悪な関係でもなかった。更衣室で会えば、挨拶も交わしていた。客を取られたということ以上に、蓮のその敵意を顕わにした視線にショックを覚えた。 この締め日だけはギャルソンズに休みをもらい閉店まで働いたが、翔の指名客は2組しか来なかった。通常の締め日であれば10組近い客が来てくれるというのに。翔にとっては惨憺(さんたん)たる数字だった。 閉店後、翔は蓮が店を出るのを見計らい話しかけた

2021.09.19

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#007-2 確執この日は締め日で、ホストたちは成績を伸ばすためにそれぞれの太客に声をかけ、店内は早い時間から満席状態となっていた。しかし、その中に翔の指名客の姿はなかった。 (俺、お客さんを怒らせる事したかな…) 理由(わけ)も分からず激減した客足に、楽観的だった翔もさすがに不安を抱き始めた。そんな時、蓮が女性同伴で店に姿を現した。 「えっ」 蓮が同伴で連れて来た客を見て翔は固まった。 「美香さん…」 翔の指名客の美香だった。ヘルプ席に着いていたが思わず立ち上がった。美香も翔に気付き、一瞬、気まずそうな表情をし、視線を反らせた。そして、蓮にエスコートされて席に着いてからは、1度たりと翔を見る事はなかった。 (美香さんが蓮さんと同伴、どういう事だ) 翔は周囲から向けられる視線も気にならないほど混乱したまま立ち尽くしていた。そんな翔に蓮は嘲笑う様な挑発的な視線を送っていた。

2021.09.19

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#007-1 確執ある日、翔はいつも通りブルーナイトに出勤した。そして、いつものように客が来るのを待っていた。客に無理をさせるのは嫌なので、よほどの事がない限り営業電話はしなかった。それでも翔会いたさに来る客は多かった。 ところがこの日、翔の指名客は誰1人として来る事はなかった。 翔は焦る事も気にする事もなかったが、そんな翔をホクソ笑んで見つめているホストがいた。翔と同じく売り上げランキングの上位に名を連ねる蓮(れん)だった。 その後も3日間、翔を指名して訪れる客の姿はなかった。さすがにこの頃になると翔も焦り出した。 (どうしたんだ。1人も来ないなんて…こんなこと初めてだ。一体どうしたんだろう…) ―そして9月最後の日にその事件は起こった

2021.09.19

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#006-4 兼業翔は接客業の本質、奥の深さをこの時期に学んだと言っていいだろう。その翔を見て、オーナーの悟志は娘の恵にこう言った。 「恵、お前が連れて来た翔君はホントに良く働いてくれるな。ホストの仕事と掛け持ちだというのに手を抜こうとしない。仕事を憶えようと努力するし、自分なりの工夫もある。簡単そうに見えるけど誰にでもできることじゃないぞ」 翔と話すのが目的で来る客も多く、ギャルソンズは以前よりも賑わうようにになった。そんな充実した毎日を過ごす翔だったが、落とし穴が待ち受けている事に気付いてはいなかった―。

2021.09.05

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#006-3 兼業これまではホストとして、相手と1対1で接してきたが、ギャルソンズでの“1対多”という環境に慣れるまでは大変だった。 オーダーした席とメニューを憶えるのは当然の事だが、飲み物・食べ物を用意しているカウンター内の状況を把握、空いたテーブルを片付けるタイミング、客への心配りなど。1人で複数を相手にするからこそ、同時に多くの事に対する気配りをするという習性が身に付いた。 狭い店内だけに、客が1人で来た場合には話し相手もしなければならず、必然的に、その客の顔と名前はもちろん、仕事内容から家族構成、果ては酒の好みまで憶える必要に迫られた。しかし、そこまで会話ができる様になると、客との関係も親密になり、その来店の頻度も高くなっていた。

2021.09.05

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#006-2 兼業そんな悟志の想いとは別に、ギャルソンズは地元のよくあるスナックの1つになっていた。紳士・淑女が流れるJAZZ(ジャズ)に耳を傾けてカクテルを飲むというよりは、工事現場で働く人達が仕事帰りに仕事着のまま立ち寄っては、ビールや焼酎を飲み、カラオケで演歌を唄う。 しかも、父の悟志は体調を崩し、店には出たり出なかったり。そのため、娘の恵が父の代わりにバーテンダーとして店に出ていた。 「お兄さん、俺のビールまだぁ」 「おい、早くオーダー取れや」 「翔君、このおつまみ1番テーブルにね」 たった13席だが、週末など全ての席が埋まった時は怒涛の忙しさだった。翔は酒やおつまみを運び、テーブルを片付けるというフロア係の仕事を精一杯務めた。

2021.09.05

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#006-1 兼業"ギャルソンズは竹ノ塚駅から徒歩で10分程の距離にあり、3階建ての雑居ビルの2階で営業していた。1階には韓国料理店とキャバクラ、3階はワンルームの賃貸住宅が4世帯あり、社会人や学生が住んでいた。2階のギャルソンズの隣には営業されていないスナック跡があり、恵の店はそこを倉庫代わりに借りて使っていた。 ギャルソンズの店内は10坪程で、カウンター席が5つと4人掛けのテーブル席が2つの小さな店だった。 恵の父・悟志は若い頃はカクテル大会で賞を獲得した経験を持つバーテンダーだった。その実績を背景に30歳の時に地元・竹ノ塚に戻って、この店を開いたのだ。「竹ノ塚にも本格的なBARを」という熱い情熱で。

2021.09.05

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#005-4 哲学恵は2ヶ月程前、ブルーナイトに1人でやって来くると、たまたま着いた翔を気に入り、以来、ギャルソンズが定休日の水曜日に週1回のペースで店を訪れ、翔を指名していた。そしてその日も、いつも通り恵は1人でやって来た。しかし、その表情は沈んでいた。 「どうしたの恵さん。浮かない顔しているけど」 「フロアのバイトの子が辞めちゃったのよ。私1人でバーテンとフロアやっているから、もうてんてこ舞いなの」 「カウンターとフロアを1人でやるんじゃ大変だね。次のバイトは、いつ入るの?」 「それが…ウチ、今、苦しくてさ」 「だったら、時給は安くていいから僕がバイトするよ。恵さんの店、良い店だから、やり方を考えれば絶対、繁盛するよ」 「そ、そんなぁ…翔君、ここのメインホストの1人じゃない」 「店は遅番にしてもらうよ。今は8時から翌朝6時までのフルタイムだけど、それを0時からにしてもらうよ」 「そんなことできるの?」 「成績上位の人は皆、そうしているよ。ホストクラブに来る客って飲食業や水商売、風俗の女性が多いから、仕事を終えてからだと真夜中0時過ぎっていうのがほとんどなんだ。僕のお客もそういう人が多いし、先月も上位の成績だったから、それくらいのワガママは聞いてくれると思う」 「じゃ、甘えさせてもらうわ…」 利害ではなく、困っているなら少しでも手助けをしたいという翔ならではの申し出だった。早速、翌週から「ギャルソンズ」のウェイターと「ブルーナイト」のホストという2足のわらじを履く事になった。

2021.08.29

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#005-3 哲学その弱点を補い助けたのは、翔の〝素直さ〟だった。他のホストは、よほどの太客(ふときゃく)でない限り、同伴やアフターの場合を除いては、店外で客と会おうとはしなかった。しかし、翔は指名客に限らず、どんな客でも連絡があればプライベートの時間でも飛んで行き、運転手をしたり、買物に付き合ったりした。 そこには仕事という意識はなく、人と接する事を欲してホストになった翔の素直な気持ちがあった。そして、翔がプライベートの時間を一緒した客たちは、意図せず、翔の指名客として通うようになっていった。 目先の金を追わなかった代わりに、翔は自分のした事の結果を手に入れる事ができたのだ。 人と人との出会いを大切にする― この地球上に60億人以上の人間がいる。その中から、その日、60億分の1という奇跡的な確立で偶然知り合うことのできた客との出会いが翔にとっては素直に嬉しかった。

2021.08.29

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#005-2 哲学ホストは売り上げのために酒を飲ませるのが基本だが、中には自分と同じく酒が弱い客がいる。そんな客にウケるホストになろうと考えた。酒でなくとも、その分、ソフトドリンクを飲めば一緒だ。酒が飲めない自分を逆手に取った発想だった。 そう考えたのには自分が酒を飲めないからというのとは別の理由もあった。 ホストの中には売り上げのために、半ば無理やり酒を飲ませ、記憶が曖昧になっている間に高価な酒を入れさせるという悪質な者もいた。一時的には売り上げは立つかもしれないが、長続きはしない。あくまでも楽しく飲んでもらい、遊んでもらい、それに見合った対価・お金をいただく。それが正しい接客業のあり方だと思った。 自分のした仕事に見合った額。自分の身の丈に合う額でなければ、金に翻弄されてしまう。そう考えたからこそ、酒の飲めない客の気持ちを誰よりも理解できるホストになろうと思った。 しかし、いくら相手の気持ちに立つ事ができても、一緒にいたいと思わせなければ仕事にならない。翔は口下手だ。会話で客を盛り上げる事はヘタだったし苦手だった。

2021.08.22

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#005-1 哲学こうして始まった翔のホスト稼業だったが、その華やかさとは裏腹に仕事は過酷だった。 翔の勤める「ブルーナイト」は、店を開く〝口開け〟が夜8時、閉店は朝6時だったが、なかなか帰ろうとしないお客たちが帰り、後片付けを済ませて家に着く頃には、お昼を回っている事が多かった。 昼1時に寝て夕方5時には起きる。新人で指名客のいない翔は、開店2時間前の夕方6時には出勤し、床磨きやテーブル拭き、トイレ掃除、おしぼりの準備まで、売り上げの低い先輩ホストたちと3人でこなしていた。 そんな過酷な生活でも翔に不満はなかった。これまでと勝手が違うのは当然のことだし、そもそも自分が決めて入った世界だ。これが当たり前の生活なのだと現実に順応させていった。 入店から1ヶ月が過ぎた頃には、基本的な仕事の流れと夜型の生活にも慣れ、3ヶ月が過ぎる頃には、周りのホストの良い所を取り入れながら「輝咲翔」というホスト像を築き上げていった。

2021.08.22

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#004-3 下積み翔はまず自分を磨こうと思った。横に着いたホストが、街中で見かける男と大差ないのであれば、金を払って来店するお客に失礼だし、夢を与える事はできない。最初に着いた女性客が言った身なり格好もそうだし、そういう表面だけでないお客への気遣いも大切にしようと思った。お客が素敵と思える男になろう。そう考えた翔は早速、行動に移した。 それまで運送会社で貯めた金でスーツを数着新調し、エステに通い、ボクシングジムにも通い始めた。口下手な自分を自覚していたので、外見から変え始めたのだ。もちろん、接客の合間に他のホストたちの会話に耳を傾け、自分の会話(トーク)の肥やしにした―。

2021.08.22

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#004-2 下積み野球は9回裏・最後の最後まで試合の結果はわからない。例え、エラーをしても繰り返さなければ勝てる。負けなければエラーも失敗じゃない。何度、失敗しても諦めなければ失敗じゃない。そんな芯の強さが翔を支えていた。 とはいえ、諦める事はなくても、新人である翔がいきなり仕事をこなせるはずもなく、苦労と努力は続いた。 1週間が過ぎた頃、翔は日々の仕事の中で気付いた事から、ホストとしてやっていくために必要な事が見え始めていた。 女性客は、自分の母親と同年代くらいだが、指名するホストの前では〝女の子〟となって甘える。そんな現実から離れられる場所がホストクラブなのだということ。そしてホストというのは、店という舞台で客の望む役を演じる役者になればいいということを。

2021.08.22

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#004-1 下積み(ホストって難しいな。会話だけに集中してもダメ。煙草に火をつけたり、空いたグラスに水割りを作るタイミングだけに集中してもダメ。酒も飲まなくちゃダメ。もう少し上手くできると思っていたのに、これまでの自分が全否定されているみたいだ) これがホスト初日を終えた翔の感想だった。しかし、辛らつな言葉を浴びせた女性客に思いが及んだ時、翔の口をついた言葉は恨みや文句ではなく、「最初にあの席に着けて良かった」だった。 翔の粗(あら)を探すように文句を言ってきた女性客だったが、それだけ自分を見てくれていたんだと思った。そして、自分の至らない点や欠点を指摘してくれた。もし昨日、あの女性客の席に着いてなかったら、自分はこれから先も他のお客様に不快な思いをさせていたかもしれない。だから翔は、それを指摘してくれた女性客に感謝したのだ。 自分の足りなさや無力さを痛感した時、大抵の人はダメだった時のための逃げ道や、自分を正当化させるための言い訳を用意する。 だが翔は、その朴訥とした雰囲気とは裏腹に、一度「やる」と決めた事は納得するまでやり遂げないと気が済まない性格だった。たとえ途中で失敗しても、それは最後までやり遂げるために必要な事だという考えだが、それは幼い頃から続けてきた野球によって培われたものだった。

2021.08.16

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#003-6 ホスト「ねぇ。新しいボトル入れるから、この新人に儀式やらせなさいよ」 先輩ホストも陰険な笑いを浮かべて応じる。そして、ブランデーの新しいボトルが来ると、氷を入れるアイスペールにドボドボと注いだ。 「オイ、新入り! これを一気飲みしろ」 「!」 アイスペールになみなみと注がれたブランデーを一気に飲めと言う。 「これがホストの新人歓迎の儀式だ。さあ飲めよ」 「ヘルプの仕事はね、先輩ホストの売り上げに貢献することなの。ひたすら酒を飲んで、客に新しいボトルを入れてもらう。それが第一歩なのよ。さあ、飲みなさい」 「…」 酒の飲めない翔にとって、とてつもない試練だった。だが、酒が当然の世界に飛び込んだ以上、逃げる訳にはいかない。意を決してアイスペールをつかんで立ち上がり、一気に飲み始めた。口元から液体がこぼれ落ちる。息が苦しくて顔が歪む。それでも飲んだ。飲んだ。そして飲み干した。 「プハーッ」 飲み終えて女性客と先輩ホストを仁王立ちで見下ろした。2人は唖然としていた。 「これでいいですか」 「あ、ああ…合格だ」 その後も翔は先輩ホストの席でヘルプに着き、飲まされ続けた。そして深夜0時を過ぎた頃、体力と気力は限界に達した。翔の視界はグニャグニャに歪み、足元はフラフラ。とてつもない吐き気に襲われ、何とかトイレまでたどり着くと、便器の中に顔を突っ込んで激しく吐いた。そこで力尽き、そのまま記憶を失った。 こうして、翔のホスト1日目は終えた―

2021.08.16

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#003-5 ホスト翔は突然、降って湧いた状況に戸惑い、呆然と言葉を失(な)くしていた。殴られた顔面には青アザができていた。高校時代、野球部で殴られた記憶が蘇った。そして、このことによって分かった。ホストの世界というのは、表面的には茶髪の兄ちゃんたちがチャラチャラしているようだが、実態は体育会系の縦割り社会なのだということが。 店内には煙草の紫煙(しえん)の香りと酒の匂いが充満している。それが翔にとっては耐え難く辛かった。なぜなら、翔は生まれて此(こ)の方、酒も煙草もやったことがなかったからだ。やらなかった理由はこれといってない。煙草は匂いが好きになれず、酒は体質的に合わないから。高校の時に1度、友達と酒を飲んだが、激しい目眩と吐き気がした。酒は自分に合わないと分かり、以後、一滴も口にすることはなかった。 嫌いなモノ、自分に合わないモノ、興味が無いモノには一切手を出さない。翔はそういう人間だった。しかし、ここは酒と紫煙が蔓延する世界。翔のそのスタイルが通用するはずもない。戸惑う翔に更に追い討ちをかける難題が課せられる。

2021.08.16

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#003-4 ホスト愛想の良い方ではない翔だったが、精一杯の愛想笑いを作って挨拶した。そして、指名ホストと女性客が座るソファーからテーブルを挟んで反対側にある“ヘルプ席”と呼ばれるスツールに腰を下ろした。 ファンデーションを厚く重ね、目の覚めるような真っ赤な口紅(ルージュ)を塗った40代の女性客はジッと翔を見つめた。すでに酒のせいで虚ろになった目で。 「アンタ、今日が初めてなんだってね」 「ハ、ハイ…」蚊の鳴くような声で返した。 「この仕事の前は何していたの?」 「トラックの運転手をしていました。最初は2tトラックで、その次に4t…」 女性客は煙草を箱から1本抜き、口に運んだ。翔はなおも喋り続ける。 「2tの時は一斗缶を専門に運んでいたんですけど…」 すると女性客が 「ちょっとアンタぁ!」 翔の話を強い口調で遮った。 「?」 何を怒鳴られたか分からず、翔はキョトンとした顔で女性客を見つめた。 「バカ野郎! 火だろうが!」 指名ホストはいきなり立ち上がり翔を殴りつけた。衝撃が走ったと思った瞬間、翔の体は吹っ飛び床に転がっていた。 「すみません。コイツ、今日が初めてなんで」 詫びながらライターで女性客の煙草に火を点けた。 「ありがとう。やっぱり京介クンは気が利くわね。それに引きかえアンタ、全然ダメね。喋りも面白くないし、煙草の火もロクに点けられないなんて。この仕事に向いてないんじゃないの」 酒が入り、すっかり酔った様子の女性客は、歯に衣着せぬ勢いで絡む様に翔に文句を言った。 「だいたい、そのカッコからして気に入らなかったのよね。サラリーマンじゃあるまいし。もっとホストらしい着こなしができないの。眉も全然手入れされてないし。せっかくのお酒がマズくなるわ」 「…」

2021.08.16

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#003-3 ホスト「おはようございます。今日から入店した翔君です」 翔を紹介する店長が「輝咲」という苗字を言わなかったのは、当時のホストの世界では源氏名は名前だけというのが一般的だったからだ。翔は偽らざる自分で勝負しようと、源氏名を決める時、本名をそのまま使うことにした。 店長は40代後半で“紳士”という言葉がしっくりくる男性だった。その外見によく似合う低く落ち着いた声で翔の簡単な紹介をすると、翔に視線を送り、うながすように頷いた。翔は立ち上がると深くお辞儀して言った。 「今日からお世話になります翔です。よろしくお願いします」 先輩ホストたちは声を掛けることもなく、皆、無関心といった様子で押し黙っていた。翔は予想外の冷ややかな反応に戸惑ったが、店長はそれがいつものことであるかのように、事務的にミーティングを進めた。 翔のホストクラブデビューとなるこの日は、ホワイトデーということもあり、開店と同時に何組もの女性客が、指名するホストとの甘いひと時を過そうと次々にやって来た。 初めて目の当たりにする夜の世界は、華やかで艶やかだった。汗と埃にまみれて働く職場しか知らなかった翔にとって、それは全くの別世界だった。 (これがホストクラブかぁ。テレビを見ているみたいだな) 翔は初めて見る光景に興奮し、子供のように瞳を輝かせて見入っていた。 「オイ新人! ボケッとすんじゃねぇ! 3番テーブルにヘルプにつけ!」 「ハ、ハイ!」 フロアマネージャーに頭を小突かれて、戦場へ駆り出されて行った。 「は、初めまして。翔です」

2021.07.24

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#003-2 ホスト訪れた客はグランドピアノから奏でられる生演奏の甘美なメロディーに合わせて、お気に入りの指名ホストと語らい、時にはワルツやジルバといった社交ダンスを踊る。その雰囲気は “地元のマダムが集う社交場”という表現がピッタリだった。 夜7時半、開店30分前に出勤した翔は、開店前のミーティングに臨んだ。同伴出勤する者を除いた20人近いホストたちは客席に座り、フロアに立つ店長の話に耳を傾けた。翔は客席の中でも最も店長に近い位置にある末席に座らせられた。そして思った。 (これから俺のホストとしての人生が始まるのか。不安はいっぱいあるけど、これまでも何とかなってきたんだ。ホストだって何とかなるだろう…) 翔はホストという職業について「女性客の酒の相手をする」程度の知識しかなかった。具体的な仕事内容もまったく知らないまま、この世界に飛び込んだのだ。しかし、強い好奇心と持ち前の楽天的な性格から、不思議と未知の仕事に対する不安はなかった。

2021.07.24

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#003-1 ホスト1996年3月14日 「ネクタイなんて久しぶりだな。富士井電機の入社式以来4年ぶりか」 初出勤となるこの日、翔は久しぶりに袖を通すスーツの感触に適度な緊張感を感じ、気持ちが引き締まった。 「ホストって、どんな髪形にしたらいいんだろ…」 そう呟きながら鏡の前に立つと、耳に触れるくらいまで伸びた髪の毛にヘアーワックスをつけ、無造作に手櫛(てぐし)をいれながら髪型をセットした。出勤の1時間前には準備が完了していたが、手持ち無沙汰で落ち着かなく、結局、時間になるまでに5回もセットし直した。 翔が扉を叩いたホストクラブ「ブルーナイト」は、私鉄東武日光線の沿線にあり、都心へ通う通勤者のベッドタウンとして拓(ひら)けた町だ。ちなみに、翔の生まれ育った草加市も、その東武線上にあった。 店のある竹ノ塚は割に大きな町で、繁華街もそれなりに賑わっていた。キャバクラやホストクラブもかなりの数がある。翔が勤めることになった「ブルーナイト」は、竹ノ塚でも5指に入る老舗のホストクラブだった。赤を基調としたシックな店内には厚手の絨毯が敷かれ、天井からは豪華なシャンデリアが吊るされていた。

2021.07.24

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#002-9 野球翔は1年半勤めた運送会社を辞めて、広告に載っていたホストクラブ「ブルーナイト」に面接に行くことにした。酒が飲めず、ホストの世界がどういうものなのか、予備知識や情報がまったくないというのに。 現在(いま)よりも、ホストという職業が閉塞的だった時代だった。両親からは水商売の世界に行くことに猛反対された。申し訳ないと思いつつも、まだ見ぬ世界への好奇心が勝っていたのだ。面接し、採用が決まるとともに、これ以上面倒をかけたくないという実家と同じ草加市にある6畳ひと間のアパートで1人暮らしを始めた。こうして翔は完全にひとり立ちした。 後に“キャバクラの若き帝王”と呼ばれる輝咲翔のサクセスストーリーは、この時から始まる。 輝咲翔22歳を迎えたばかりの冬のことだった―。

2021.07.24

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#002-8 野球この数ヶ月間、翔の心の奥で疼いていたのは、このことだった。このままトラックの運転席でハンドルを握る人生でいいのか…。 『俺はまだ若い。もっと色んな人と知り合い、触れ合って世界を広めたい』 『もっと自分に合った仕事、自分が熱くなれる世界があるんじゃないか』 『金よりやり甲斐のほうが大切だ』 トレーラーの運転手をやろうか、ホストをしようか迷ったが、トレーラーは免許があるので、いつでも乗れるし、稼げる。人と知り合い、触れ合える仕事をしよう、それには接客業だ――短絡的だが、そう思った。早速買った求人誌には、様々な職業が載っていた。その中で翔の目に止まったのは『ホスト募集』の文言だった。

2021.07.04

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#002-7 野球トラック運転手としてステップアップするに合わせて給料も上がり、20歳(ハタチ)の時、木屑を運ぶチップ車と呼ばれる大型トラックを運転する翔の給料は50万円を超えていた。この頃、翔は金銭的にも満たされ、仕事の中に責任とやり甲斐を見出すこともできていた。しかし同時に、何か物足りないもどかしさが―焦りにも似た疼(うず)きが胸の奥に巣食い始めているのを感じていた。 それが何なのかに気付いたのは、チップ車に乗るようになり1年が過ぎた頃だった。その日、翔は荷積みして京葉道路を走っていたところ、無線を通じて男の声が入ってきた。トラック運転手の間では、長距離運転の退屈しのぎや眠気覚ましのために、無線を使って見知らぬ物同士が会話をするという業界特有のコミュニケーションがある。 翔はいつも通り、その会話に付き合っていた。だがその時、ふいに気付いた。自分の生活の中で、直接、顔と顔を向き合わせて会話をすることがいかに少ないかということを。こうして無線を通じて顔も知らない人と話している時間がなんと長いことか。 業界に馴染めば馴染むほど、その度合いは高まり、誰とも顔を合わさず、無線だけの会話で1日が終わることもある。この仕事をずっと続けたら人と知り合う、触れ合う機会はどんどん減っていくだろう。それでいいのか…人と知り合わなければ、世界がどんどん狭くなる…それでいいのか。

2021.07.04

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#002-6 野球富士井電機を半年で辞めた翔は、幼なじみの大平の父親が経営する運送会社でトラックの運転手として働き始めた。 野球ができる機会は地元の草野球で月2回程度に減ってしまったが、それまで工場の中に籠(こ)もって仕事をしていた翔にとって、見知らぬ土地に行けるトラック運転手という仕事は新鮮だった。給料も格段に良くなったし、何よりも高い位置にある運転席からの視界は気分が良かった。 最初は普通免許でも運転できる2tトラックで東京近郊に一斗缶を運んでいたが、次第にもっと大きなトラックを運転したくなった。入社から半年経つ頃には、大平社長に他の運送会社を紹介してもらい、そこで4tトラックを運転するようになった。 それを運転しているうちに、さらに大きなトラックを運転したくなり、大型とけん引、大型特殊と3つの免許を取ると1年後、またも紹介してもらった別の会社へ移った。

2021.07.04

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#002-5 野球だが、翔は文句を言うことはなかった。他にしたいことがない以上、この仕事をするしかないと思っていた。そして「どうせやるならキッチリした仕事をしなければ」と自分に言い聞かせていた。 そんな生活が半年続いたある日、翔はあることに気付いた。それは自分と同じようにベルトコンベアーに向かっている作業員たちが、自分の両親と変わらない歳の人たちばかりだということと、パートのおばちゃんでもできる仕事だということを。 その瞬間、翔の脳裏に、その歳になった自分が今と同じ場所で同じ様に青いつなぎの作業着を着て働いている姿が浮かび、愕然とした。誰にでもできる仕事を今やらなくてもいいのではないか。そして、自分もあの歳になるまで、こうして毎日を過すのかと思った途端、感じたことのない将来への不安が心の中に広がった。

2021.07.04

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#002-4 野球卒業を控え、自分の行く先が見つからなかった翔は、高校の就職課の勧めに従い、流されるままに電子部品メーカー「富士井電機」の日野工場に就職することにした。選んだ理由はただ1つ、実業団野球があったから。先は見えずとも、野球が好きだという気持ちだけは萎(な)えなかったのだ。 こうして翔の社会人生活は週2回、午後6時から8時までの野球を中心に始まった。実業団野球の大会では、東京ドームのピッチャーマウンドを踏んで感激した。自分が憧れた幾多の名選手たちが立った場所に自分も立っている、と。 しかし、充実する野球生活とは裏腹に、工場での仕事は変化のない単調なものだった。朝9時から夕方5時までベルトコンベアーに乗って流れてくる部品を、ただ黙々と組み立てるだけ。それに加えての薄給。

2021.06.15

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#002-3 野球学生時代の、とりわけ高校時代の翔は、お世辞にも教師に気に入られる様な生徒ではなかった。とにかく勉強嫌いで、教壇で話す教師の声は子守唄以外の何物でもなかった。当然、成績は学年でも下から数えた方が圧倒的に早かった。 カンニングが見つかり停学処分も受けた。学校で禁止されているアルバイトも隠れてやった。パチンコ店の店員だ。それを偶然、パチンコをしに来た担任教師に見つかり、またも停学。学校に届けを出さずにバイクの免許を取ったのがバレて、またまた停学…。 悪(ワル)の不良という訳ではなかったが、間違いなく優等生ではなかった。しかし、早退することはあっても遅刻することはなかった。遅刻するということは、なんだかだらしないことの様に思えたからだ。小・中・高と12年間、遅刻したことがないというのが密かな自慢だった。 翔がそんな信念を持っていることなど周囲の誰一人として知らなかったが、とにかく、学生時代の翔は熱く吼えるようなことは絶対になく、無口で口下手なごく普通の生徒だった。

2021.06.15

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#002-2 野球酷い時にはセンターからライトまでの数十メートルの間、ビンタを受け続けたこともあった。そうして耐えて努力し続けたが、レギュラーにはなれなかった。人生最初の挫折といっていい。 ほとんどの人間が経験する最初の現実― ヒーローになれると思っていたのになれない自分がいる。その現実を受け入れ、一歩、大人に近づかなければならない悲しい瞬間。 しかし、翔はその現実を素直に認め、受け止めた。だが、この少年が少し違っていたのは、そこで終らなかったことだ。野球ではヒーローになれなくても、自分には違う可能性があると信じた。 とはいえ、この時点では何も見えていなかった。野球という人生の目標が消えた今、これから自分が何を目指したらいいのか分からない。具体的な道は見えていなかった。

2021.06.15

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#002-1 野球輝咲翔は1973年11月15日、埼玉県草加市に公務員の父、専業主婦の母、3人の兄という、ごく普通の家庭に生まれた。 兄たちとは9歳、5歳、3歳と年が離れていたことから喧嘩することも少なく、両親からも可愛がられて育った。そのため性格的には和やかな、オットリした人間が形成された。 翔が青春時代、最も打ち込んだのは野球― 次男がやっていたことから影響を受けて物心つく頃から始めた。かなりの素質はあったようだ。リトルリーグで不動のエースで4番。高校は埼玉県下で強豪校といわれる川口中央工業へ野球で入った。将来はプロ野球へという夢を抱いて…。 だが、ほとんどの人間の前に立ち塞がる〝青春の壁〟は、少年・翔の前にも立ちはだかった。地元では不動のエースで4番だったが、県内の優秀選手が集まる強豪校ではレギュラーにもなれなかった。 それでも翔は卒業するまでの間、片道40分の高校までの距離を自転車で通いながら、諦めることなく全力で野球に取り組んだ。帰宅後のランニングは毎日怠らなかったし、一年生の頃には体育会系特有の先輩からの体罰にも耐えた。

2021.06.15

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#001-4 総帥「大連って、中国の大連ですか?」 「うん」 「な、何でまたそんな…」 「この間、中国でビジネスを展開している人に誘われて大連に行ったんだけど、日本人もすごく多いんだ。そこで、この街で日本スタイルのキャバクラやったら繁盛ると思う。成功するかどうか分かんないけど、やってみたいんだ」 「外国で、ましてや中国というリスクの高い国に店を出すなんて…」 一同はあ然と青年の言葉を聞いていた。そして思った。 (またいつもの病気が出たな…) 更に一同は思った。 (一度言い出したら聞かない人だからな…) 幹部会はこの青年の提案を了承・可決した。 そして半年後、青年の言葉は現実のものとなり「K大連」はオープンし、大盛況を迎えたのである。 この大業を成し遂げた青年こそ、30代にしてナイトビジネスからアパレル、旅行代理店、自動車販売業、IT関連ビジネスまで手掛ける、 「KIZAKIグループ」総帥・輝咲翔である。 だが、今でこそ、500人のスタッフを誇る企業の頂点に立つ翔だが、10年ほど前は町工場で働く、ごく普通の青年だった。

2021.05.23

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#001-3 総帥広さ20坪程の部屋では会議が行われ、青年はその上座にいた。 日焼けした褐色の肌に耳まで隠れる茶髪。11月には30歳を迎えるという年齢の割には童顔に見える純朴そうな顔。一見すると、どこにでもいる“イマドキの兄ちゃん”風で、無邪気さを秘めた子供の様な瞳が印象的だ。 会議は青年がオーナーを務めるキャバクラグループの月例会議だった。幹部たちは、売り上げやキャストたちの管理などについて、現在グループが抱えている課題とその対策案を報告していた。 このキャバクラグループは、都内には一店舗も店を持たず、千葉や埼玉などの首都圏で十数店舗を展開するという大成功を納めている異色の企業だった。 十数店舗を抱えるグループの幹部会なのだから、そこに抱える問題・課題は少なくはない。幹部たちはグループを維持していくための対策を必死で考え、会議に臨んでいた。 幹部たちが次々と発言する様を青年は無言のまま眺めていた。その子供の様な好奇心に富んだ瞳で。 報告が一通り終え、会議が途切れた時、青年は何の前触れもなく突如立ち上がった。 「僕から一つ提案があるんだけど」 一同は「何事だ」と言わんばかりに青年を見た。青年はその視線に臆することもなく淡々と言った。 「大連に店を出す」 「はっ!?」 突如、放たれたそのひと言に幹部たちは驚いた。

2021.05.23

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#001-2 総帥4ヶ月前―2003年7月、東京・六本木 陽も沈み“ネオン”という夜の陽が頭上に輝き出すと、不夜城といわれるこの街には、様々な人間が集まってくる。あたかも闇の中に灯る明かりに群がる浮塵虫のように… 政財界の人間が集うのが銀座なら、この街は芸能・マスコミ・広告業界など、いわゆる“ギョーカイ”の人間が集う街。接待から遊びまで… また、近隣に外国大使館や外資系企業が多いことから、外国人の姿も珍しくない。他にも意味もなくただやって来ては、クラブでひたすら踊り狂う無軌道な若者たち。更には、この街を主戦場とするキャバ嬢やホステス、ホストなどの“夜”を仕事とする人々や、夜の陰の主役・ヤクザたち。 だがその時は、まだ太陽の光が頭上から降り注ぐ午後2時。街の景色は夜とは一変し、家族連れや若いカップルで溢れていた。この4月に六本木ヒルズがオープンしたためだ。 その六本木ヒルズに程近いビルの一室に、青年はいた。

2021.05.23

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#001-1 総帥2003年11月、中国遼寧省大連市― この年の暮れ、大連のナイトビジネス界はある話題で沸き返っていた。それは大連初の日本企業による日本スタイルのキャバクラが誕生したからだ。 店の名は「K大連」。 高級感のある内装、そして教育が徹底されたプロのキャスト、黒服。そのスタイルは後進的だった大連のナイトビジネス界にとって大きな衝撃となった。 大連のナイトビジネス界は、この「K大連」に触発されて、それまでのシステム・サービスが一新され、大きく変化していくこととなる。 そんな海を挟んだ一大センセーショナルを巻き起こしたそもそもの始まりは、1人の日本人青年の思いついたようなひと言からだった…

2021.05.22

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